飲まない生活を気楽にやろう!

アルコール依存症で苦しんだ過去、止めている今を気ままに綴ります。病気に関係ないことも書いています。よろしくお願いしますm(._.)m

助けを求める

役所のワーカーさんに、仕事のことを含めた近況報告や、悩み事を聞いてもらった。


去年までは区役所で就労支援を受けていたので、けっこう頻繁に役所に通っていたが就労を機に、ほとんど行かなくなった。


今日、はじめて知ったのだが、自分の担当のワーカーさんがいて、困ったことがあったら、なんでも相談していいらしい。もっと早く知るべきだった。


とにかく、話しをするなかで、自分の問題点が、少し整理されて、少しだけ心が軽くなった。本当にありがたい。


経済的な自立を果たしたことで、一人でなんでもやらなければならない、みたいな勘違いをしていた。一人でなんでもやれている、という間違ったプライドもあり、それが援助を受ける妨げになっていた。


僕は、酒を止めて、少しは時間をいただいたし、働かせていただけるようにもなった。それでも問題を抱えた一人の弱い人間だし、だからこそ、誰かに助けてもらわなければ生きれない。飲まない時間が長くなるにつれ、精神的に強くなったり、経済的に豊かになったとしても、依然として、何かしらの助けが必要なのだ。間違っても、助けなしで、生きようなどと、思っちゃいけないな、と感じた1日でした。

巧妙で強力で不可解な病気

AAの基本テキストである「アルコホーリクス・アノニマス」には、アルコール依存症のことを「巧妙で強力で不可解」と表した一節がある。僕自身の経験からも、病気の特徴を上手く言い表した言葉だと思う。


以前のブログでも書いたが、僕は酒が好きで飲んでいる、と思いながら飲んでいたが、あるとき飲み会の帰りに、泥酔して帰ったとき、内心「なぜ、こんなになるまで飲むのか?」と素朴な疑問が浮かんだ。しかし、その後に頭に浮かんだ考えは、「俺は酒が好きで飲んでいるんだ」という考えだった。

まるで、最初に浮かんだ疑問を打ち消すような形で、飲酒を正当化するような考えが入り込んできた。アルコール依存症が巧妙である、と言われるのは、恐らく、こんな風に、知らず知らずのうちに飲酒を正当化するような考えで頭が支配されていくことだと思う。しかも、この狂った考えは、飲めば飲むほど進行し、最後は、仕事よりも家庭よりも、命よりも、酒のほうが大事になり、飲むことしか考えられなくなる。僕も、そうだった。運良く、死なずに済んだけど。


そして、アルコール依存症の厄介なところは、まだある。アルコール依存症は、レントゲンに写ったり、外傷ができたり(飲んで転んだ傷は、別)、するわけではない。つまり、明らかな病気、という根拠が目に見えないので、治療しよう、という気に、なかなかならない。周囲の人間からは、おかしく見えて、周囲から指摘されたとしても、本人が病識を持つのは難しい。それでも飲み続けるかぎり確実に進行していく。非常にわかりづらい不可解で厄介な病気です。しかも、止めていても、継続的に自助グループや通院を通して治療をしないと、再発(つまり再飲酒)してしまう恐ろしい病気です。

アルコール依存症は病気

アルコール依存症になると、独力ではお酒をやめられなくなる。まれに、誰にも頼らず断酒している人もいるらしいが。一生、病院やその他施設に閉じ込められて物理的に飲めなくなる、という例を除けば、独力でやめているアルコール依存症者を見たことはない。


AAでは、それを「アルコールに対して無力」と表現するけれど、本当にそう思う。ただ、このことを頭で、理解しているのと、感覚として体に染み付かせることは、僕の経験上、全く違う、という感じがする。


頭で、いくら飲んではいけない、と思っていても手を付けてしまう(自制できない)ことが、アルコール依存症が、意志薄弱ではなく、病気(疾患)と言われる所以なのだと思う。 病気でない、健康的な人であれば、体や仕事のことを考慮して、「今日はこれぐらいにしておこう」とコントロールできる。


アルコール依存症者である僕は、それができない。


ミーティングのなかで、同じアルコール依存症者の話しを聞きながら、確かに僕も、止めなきゃ止めなきゃと思いながら、止められなかったことを思い出したとき、意志が弱かったからではなく、精神が狂っていたから止められなかったのだと、納得できた。


それは知識や情報として提示されたからではなく、僕以外にも、おかしな飲み方をして、苦しんでいる人がいることを、見聞きしたから、そして、その人たちの話しを通して、自分も病気だと思えたからだと思う。この世に、自分しか、おかしな飲み方をしている人がいなかったら、決して病気を認めることは、できなかったはずだ。