飲まない生活を気楽にやろう!

アルコール依存症で苦しんだ過去、止めている今を気ままに綴ります。病気に関係ないことも書いています。よろしくお願いしますm(._.)m

言葉の暴力

こんばんは。

引き続き幼少期ネタです。

気分が悪くなりそうなかたは、スルーしてくださいm(._.)m


最近思ったんですが、僕は体の暴力からは身を守ろうと思うのに、言葉の暴力からはなぜ心を守ろう、と思わない、思えないのか、ということ。


子供のころ、言われたことでよく覚えてる言葉。


恥だ!

みっともない!

罰があたる!


主に母、祖母からです。

例えば、道を歩いているときに、見知らぬ人に僕が何か失礼なことを言ってしまったとき。


だけど、恥、とか、みっともない、って年端もいかない子供には酷だな、と思う。酷だし、重みがある。

誰かに対して恥だ、という言葉を使うとき「あなたは、間違ったことをしてはいけない」という前提が含まれているように思うのです。例えば成人で、善悪の判断もつき、自分の行動に責任を負える人に対して、誤りを指摘する際に「恥だ」、「みっともない」と批判するなら、わかります。


しかし六歳とか七歳の子供には、やはり酷です。むしろ、「恥ずかしく、みっともないことをしてしまうのが当たり前」の年齢です。


話が逸れに逸れました。

要は、子供のころから、年齢に不相応な理不尽な言葉を浴びせられ、でも、何か言い返せない、抵抗できない状況のなか、言われる僕がぜんぶ悪い、みたいな、自分でぜんぶ罪をかぶるみたいなスタンスに疲れました。

ほんと、疲れた😵💤⤵


殴られたら誰だって痛いし、痛いから止めろ、という権利がある。


理不尽なことや傷つけるようなを言われたら、やはり痛いし、嫌なんです。

そして、痛いから止めろ、という権利があるはず。今まで我慢し過ぎたんです。たぶん。


変われるかな…

家庭環境

あえてACという言葉は使いませんが。


ここにきて、幼少期のころの体験なり経験なりが現在の自分に及ぼす影響について考えることがあります。


僕の母は、詳しく把握してないですが、ある芸術の方面を生業とする道に進みたかったものの、親の反対にあったのか、あきらめたそうです。ところが僕の兄がやはり芸術関係に進もうとしたとき、そのことに猛反対し、二人は衝突したようです。


夜中に、激しい言い争いが、聞こえてきたことが今でも思い出されます。

当時はなぜ二人が衝突するかよくわからないまま、ただあまり触れたくもなく、しかし、無視もできず、というかんじです。


家庭環境をすべて把握するのは、難しいですが、しかし、酒を止めて、少し時間も経ち、ある程度クリアになった頭で、振り返ると、幼い子供が安心してのびのび過ごせる家庭環境ではなかった、と率直に感じます。


家庭環境が、どういう影響を自分に与えたのか、正確にはわかりません。ただ僕が過ごした環境には、「自由であってはならない」という暗黙の雰囲気があったように思います。


「自由であってはならない」というムードの背後には「自由でいること=罪悪」というメッセージが見え隠れしているように思います。


が、これは本来、おかしなことです。

罪悪とは、一般的には、他人や集団、組織などに、肉体的、精神的、金銭的な害や傷、苦痛を与えることだと僕は考えます。それを罪悪と考えるならば「(他人に害を与えないかぎりにおいて)自由に考えたり、感じたり、表現すること」が罪悪とされることは、非常におかしなことです。


ところが、そういったおかしさが幼少期の僕の家庭環境には、あったように思います。


そして、その結果として今でも、自分の意見を述べること、特に、依頼したり、苦情を伝えることが悪いことだ、という考えが抜けず、苦しい思いをしています。


こうした、本来、感じる必要のない罪悪感を、どう処理するかがこれからの課題となりそうです。

映画のはなし

今回は病気とは関係ない映画のはなしを。と言っても好きな映画を自分勝手に評するだけです(笑)


●イージーライダー

言わずと知れた的な作品ですが。とにかく映像が美しい。ただ酒がひどかったころに観まくった作品なので、いまは、あまり見たくない(笑)。


●タクシードライバー

これも言わずと知れた的な作品。若き日のデニーロが格好よすぎで、しびれた。


●フライト

アル中の機長さんが主人公のはなし。同じアル中として勇気付けられます。


●プラダを着た悪魔

今の仕事を始めて、まだ慣れない時期に観てすごく共感した。


あまりにざっくりしたかんじですが、たまには趣向を変えて書いてみました。


あと、最近、猫の動画にはまっているので近日公開の「ボブという名の猫」が観たいです。